氏 名
阿久津 敏朗
 所 属
東燃清水OB会
 掲 載 日
令和02年12月24日
表 題

 高天神城跡

本   文 

 高天神城は静岡県の掛川駅の南方8kmのところにあり、太平洋までは約5kmの距離にある。周りは田んぼや湿地で標高差100mの山上に、本丸と西の丸の間に渓谷を挟むように築城されている。城の周りはほとんど垂直な断崖で、小規模だが堅固さを誇っていた。攻めるとすれば幅1.5m位の大手口からしか、なかっただろう。(現在は搦め手口を改修した広い階段状の道がある)築城は室町時代、今川氏によるものらしい。桶狭間で今川義元が織田信長に討たれた後、武田と徳川は今川領へ侵攻するが、時の高天神城主、小笠原氏興は徳川方につき、高天神城は徳川方の城となった。

 その後、元亀2(1572)年、武田信玄が攻撃をかけるが、攻略不可能とみて信玄は撤退する。(この攻撃は疑問視されている説もある)天正2(1574)年、信玄亡き後、武田勝頼25,000の大軍で高天神城の奪取を図る。徳川勢は無勢のため、主力に出馬を要請するが、家康は後詰がかなわず、織田信長の後詰も間に合わなかったため、高天神城は開城し武田方の城となる。その後、武田勝頼は北条氏との同盟が決裂し、高天神城の後詰ができなくなった。徳川家康は高天神城の周りの砦や城を破り、さらに城砦群を築城し高天神城への甲斐からの、補給路を遮断した。

 天正9(1581)年、武田方は兵糧もつき降伏もゆるされなかったため、夜襲を図って包囲網を破り、甲斐まで逃げのびることとした。しかし、城兵840名の内、甲斐まで逃げて勝頼に会えたのはわずか11名。徳川方に殺されなかったのは、ほかに50名ほどがいただけだという。
この戦いの様子は、新田次郎の武田勝頼(三)空の巻、嗚呼高天神城の項に小説として詳しく書かれているので、ご覧になってください。

 写真の説明
  写真1 高天神城の観光案内板
  写真2 高天神城想像図
  写真3 三の丸跡 四阿が建てられている 
  写真4 三の丸から谷をのぞく
  写真5 本丸跡 高天神社の祠がまつられている 奥の院か?
  写真6 本丸跡からみた、城の周り。田畑、民家や工場が見える

以上 

       
 
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