氏 名
千木良 璋
 所 属
東燃化学OB会
 掲 載 日
平成26年12月24日
表 題

 米寿を迎えて ~奄美の思い出~

本   文 

 米寿のお祝をいただき有難うございました。私は昭和27年に東燃に入社して東燃化学で退職するまで、日本経済は右肩上りで、東燃グループの一番輝いた時代に生きることが出来たことを、申し訳ないほどの幸運と思い感謝しております。退職後は妻が通っていた教会で洗礼を受け、同じ頃神奈川県の山の会へ入り、方々を歩きましたが、今は足腰も弱り老妻と教会オンリーの生活です。近くに住む3人の息子は家族連れでよく訪ねて来ます。

 私の在職中のもっとも強烈な思い出は、奄美大島での体験でした。昭和48年、会社が奄美大島(7市町村8万人)の西端にある人口2600人の小さな宇検村に、日産50万バレルの大製油所建設計画を発表したとき、私がリーダーとする調査部員数名が尖兵として現地に派遣され、そこで猛烈な反対運動に直面しました。

 会社は県知事の賛同を得て、地元宇検村の誘致議決と調査承認を受けて万事OKと思っていましたが、周りの市町村から反対の声が上がりました。これが会社や村の予想を遥かに超えたもので、「奄美の自然を守れ」を合言葉に、各市町村が相次いで“東燃進出反対決議”を採択。一方、奄美の議員、労組、漁協、青年団等50団体によって“公害反対郡民会議”が結成され、強力な反対運動を展開しました。このため宇検村は孤立し、会社の調査もストップしました。

 郡民会議の要求で開いた名瀬市での会社の説明会は、結局会社代表を吊し上げる会に。全島から動員された3500人が宇検村に押し寄せ、干拓地で反対集会。迎え撃った村民1800人との間で投石合戦が始まり、県の機動隊が出動。この動きは東京に飛び火して、郡民会議や在京奄美会の数十人、時には数百人が東燃本社へ繰り返し押しかけて抗議。遂には事務所に乱入して座り込みを続け、機動隊がこれを排除して3人逮捕。これを会社が告訴して実刑3ヶ月の判決が下りました。

 名瀬市では賛成派の家へ反対派が大勢で押しかけ、こうした騒ぎを地元紙が連日大きく報道し、一時衆議院の予算委員会でも話題になりました。然し会社は怯みませんでした。このような不穏な空気の中で、私たちは連日旅館で宇検村幹部と対策を協議し、絶対的反対者は20%と分析。隣接町村と名瀬市の協力を得られそうな実力者や議員を選んで、手分けして、個別に説得する作戦を開始しました。コネを辿って密かに面談した人達は、長時間熱心に私たちの説明を聞いた上で、大方納得してくれました。

 一方で私たちは和歌山工場の見学会を立ち上げ、商工会の幹部、紬業者、料亭やクラブのママ、相撲連盟の理事、その他希望者数百人を次々と工場に送り込みました。論より証拠で、公害のない工場と海を見て開眼した人達は島に帰って、全員陰に陽に会社の応援団になりました。これを見た郡民会議はヤッキになって阻止しようとしましたが、流れは止まりませんでした。やがて氷が溶けはじめ強力に反対していた隣接町村が「反対決議」を撤回。議員団が上京し会社役員と会見。「自分達の町へも備蓄基地を」と陳情するまでになりました。しかし会社の調査再開の前提条件となった県の調査をめぐり、地元の町村長議長会と県当局との話し合いが難航し、年を重ねている間に中東情勢に端を発する日本経済の変化を受けて、日本のエネルギー政策が大転換。製油所建設のニーズは遠退き、備蓄も国家備蓄の方向へ動き出しました。会社は不退転を誓った宇検村に礼を尽くして3億円の財団を寄付し、円満撤収しました。

 あれから40年。共に闘った調査部の仲間や総務部の方々、また焼酎を飲みながら歌って踊った宇検村の人達の顔は、今も瞼に焼き付いております。

 OB会のご盛況をお祈りします。

以上 

       
 
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