氏 名
古田 淳一郎
 所 属
東燃化学OB会
 掲 載 日
平成26年11月01日
表 題

 喜寿になって、思い出すこと

本   文 

 喜寿のお祝いを戴き、ありがとうございます。

 1961年の春、東燃石油化学(株)という、前年末に出来たばかりの会社に第一期生として入社しました。当社で最初の石油化学担当研究員の一人に配属され、外部から入手した2エチルヘキサノールの品質試験/評価が初仕事でした。アルドックスが稼働する前のことで、この化成品に東燃はまだ全く経験がありませんでした。

 当時の日本は、新しい国を立ち上げる気運に満ちていました。ビルや道路が建設され、新幹線が開通し、1964年には東京オリンピックが開かれました。このオリンピック後にも国際身体障害者スポーツ競技会があって、東京大会で初めて「パラリンピック」と呼ばれたのだそうです。機会があって、そのパラリンピックでボランティア通訳をやりました。スタッフとして選手村へ入る写真付通門証、オリンピック大会用語の6か国語ポッケト通訳本、代々木選手村3か国語案内冊子などが手元に残っています。2020年が東京オリンピックになったので、今の私にとってはお宝アンティークの気分です。

 1965-66年には石油樹脂技術導入の研究/実験をして、プラント建設に必要な基礎データをとりました。その後は、PP/PE加工製品の開発研究、樹脂販売の技術サービス、エンプラ事業に携わって、中央研究所、加工研究所、本社技術部、トープレン(株)などに異動し、埼玉、川崎、東京、千葉で勤務しましたが、入社から定年まで一貫して本社所属でした。
1997年の末、定年退職した時には社名が東燃化学(株)に変わっていました。

 今は東燃化学合同会社というのですね。入社以来、世相転変の半世紀を超えてお世話になっているわけです。

 さて今は、心身共に順調に歳をとりながら暮らしています。定年後、母を介護/看取ってから、サラリーマン時代に出来なかったことをいろいろ試しましたが、結局「歩き」と「絵描き」が残りました。歩きは歳なりに下り坂方向ですが、歩くこと自体は好きになりました。絵は身近な三つの展覧会に毎年出展しています。

 今のところ、すぐ命にかかわるほどの病気もなく、足腰も特に痛むわけではありませんが、血糖値、目(白内障)、歯(入れ歯)、耳(幼児から持病の慢性中耳炎)などなど、次々と衰えが顕在化して、「まだ出来ること」と「もう出来ないこと」の釣合が日々に変わってゆきます。酒飲みでしたが、今は珈琲党です。こうして喜寿まで来たのは幸運なことだと思っています。


付記:
 添付写真にある3枚の絵は最近の作品です。《何を描いてあるのか》《何を伝えたいのか》を謎解きしてもらいたいのではありません。この絵を見ている人を日常からチョット離れた景色に誘って、何だ?でも、ビックリ!でも、綺麗!でも、ヘーエ!でも、自作の物語でも、何かの感興を持ってくれる機会が生まれれば幸なのです。見る人の自由な発想の邪魔になるので、具象的な画題名はありません。

以上 

     
 
写真1
 
写真2
 
         
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