氏 名
加納 元行
 所 属
所属OB会
 掲 載 日
平成25年07月29日
表 題

 雲雀山得生寺の会式なるものについて

本   文 


 時期はずれは承知のうえ、雲雀山得生寺の会式なるものについて、申し述べる。

 徳川御三家の紀州、和歌山城が終点となる、国道42号線沿い有田市糸我の里に、熊野古道が通っている。そこに雲雀山得生寺がたたずんである。

 この寺で毎年5月14日、中将姫の来迎会式なる行事があるんじゃ。どうも聞くところによると、本家は奈良の当麻寺(たいま)だそうな。あっちは確かにお寺そのものが大きい。中将姫の命日(29歳没)にお練りという極楽浄土へ渡る儀式があるそうな。この時分、ボタンが咲き誇る有名な山寺である。

 一方、得生寺の周りは田んぼで平地にある。本堂は雲雀山を見あげて建っている。我家も近くに居座り、三十数年、今は他県で中学生の息子らを養育中の、わが娘ふたりも、糸我小4~6年の折、菩薩の面をかぶって、会式の舞台を練り歩いたそうな。菩薩は25体あり。私にはカメラを引っ提げてわが子の晴れ舞台を撮りに行った覚えが一回もない。ああ~。

 忘れておりもうした。中将姫の会式なるもののいわれを説明せねばなりませぬ。
天平の頃と言いますから、奈良時代ですな。その美貌と才能が耳目を集めた、藤原家のお姫様だが、継母のうとまれるところとなり、旦那が留守の間に暗殺が企てられた。あやうし、姫様。命令された家来はふびんに思い、熊野古道の雲雀山に逃した。その後、家来夫婦に育てられたという。前半はシンデレラと同じパターンだが王子様の登場はなく、観音菩薩に導かれ、極楽浄土へ旅立つ。ジャパン、仏教の世界のお話であります。

 何も知らぬ、右大臣でおやじの藤原なにがしが熊野詣での折、再会。都へ連れてかえった。姫は誰もうらまず、仏の道に精進し、沢山の写経を書き残したという。

 29歳の若さで、当麻寺で没したが、練り供養がおこなわれることになった。本家では1000年以上続いておるそうな。伝説であるが命日に同時に二つのお寺で供養があるお話。菩薩のお面や袈裟などが大切に保管、伝承されている。お寺ならではである。

 糸我では今年も地元の女子小学生が25菩薩の姿となり、仮設の朱塗りの廊下をお渡り、練り供養した。県無形文化財。晴天のなか、多勢の観客あり。本堂の屋根は昨年吹き替えられて、ぴっかぴか。堂々としたもの。檀家さんはぎょうさん寄付したんだろうなあ。昔から「嫁見するなら、糸我の会式、それで会わねば千田祭り」と云い伝えられる。写真は、手ごろなものがないので、得生寺をホームページ等で検索し、ご覧下さい。    

以上