氏 名
中村 重夫
 所 属
東燃本社OB会
 掲 載 日
平成25年06月10日
表 題

 過ぎし77年を振り返りて(喜寿に思う事)

本   文 


 今年は私達がこの世に生を受け77年、喜寿という節目の年を迎えることとなりました。そこで、これを機に私達年代の者が歩んできた歳月を振り返ってみようと思います。 

 最初にわが人生77年を振り返り、他の年代の方々と比べ、私達年代の者は『最高に幸せな時代』を生きたことに感謝したいと思います。

 私達がこの世に生を受けたのは昭和二桁の入り口、丁度中国大陸で盧溝橋事件が起き、世界大戦の序幕が切って落とされた時でありました。それから10年、敗戦、すべてが焼野原、皆ゼロからの再出発となりました。この時は皆一様に貧しく「格差の拡大」などと他人を僻目で眺めることもなく、また、価値観も一新し自由を謳歌する学生時代を送る事が出来、そして社会人へと巣立ったのでした。時は池田内閣が誕生「所得倍増計画」の掛け声のもと高度成長時代へと進んでいきました。この時期、わが国の産業はエネルギー革命のもと「黒いダイヤ」から「石油エネルギー」へと転換、中東サウジ、イラン、イラクなどでは新油田の開発も進み、「ダラー原油」と称し、今では100$もする原油が1$台で大量に輸入、モータリゼイションを背景に需要もどんどん拡大していった時代でした。

 入社当時の昭和30年代中頃、勤務地であった清水工場はオリオン計画が完成、増加する原油の輸入に対処するため、新人の私など昼夜を問わず沖合のシーバース通いの毎日でした。
 一方、当時大衆化しはじめたゴルフ、自動車などを習い、ダットサンを乗り回し、近郊の『大富士CC』に足繁く通ったものでした。
 30年代の後半は本社販売課で当時米独禁法によりスタンバックが解体、エッソ石油、モービル石油に分割、両社お互いに競い合い、そのシェアーリングに頭を悩ましたものでした。
 次いで40年代中頃には川崎工場勤務、300号地、400号地の新設も完成、それまで石油化学に委託していた200号地の業務も引き継ぎ、RIACS-Kと称するコンピューターによる受注、税務管理も当社では初めての経験でしました。
 なお、和歌山工場には直接勤務した経験はありませんが、私達の時代、入社6ヵ月間は試雇期間として同期生全員で合宿、朝から晩まで企業人としての心得、知識を叩き込まれた思い出深い工場であります。この時に生まれた同期生の絆は今も延々と毎月、昔話に花を咲かせています。

 この高度成長も田中内閣の「日本列島改造計画」で頂点に達し、これに警鐘を鳴らしたのがイラン革命による「石油危機」でありました。が、まだこの危機は私達が遮二無二走ってきた時に一息つく機会が与えられたに過ぎなかったように思います。
 省エネルギー時代を迎え、我が社も奄美への進出、和歌山、清水などの拡張計画などは中止にはなりましたが、日本全体のGDPは依然成長を続け、金融緩和によりジャブジャブになったお金は土地、株に流れ込み空前のバブル期へと突入して行きました。そして橋本内閣の「緊縮財政政策」により、バブルは一挙に弾け、現在の空白15年とも言われるデフレの時代に突入していったのでした。 
 私達の年代はこの時期を待っていたかのように『老兵はただ消え去るのみ』と社会の一線からリタイヤーしていきました。
 
 このように私達の育ち、第一線で働いた時代は、敗戦により皆同じゼロからのスタートとなり、平和と自由平等の価値観の下、高度成長に支えられ、思う存分に働き、遊ぶことができ、「働く者は報われる」古き良き時代であったと今は懐かしく思い出されます。そして、バブル前に自己の住家を確保し、バブル期には株で財をなし?、 日本経済には好ましくないかもしれませんが、老人には住み易いデフレの世に老後を過ごす最高の人生ではなかったでしょうか。いや、現在形で、ないでしょうか。と申しますのも、この喜寿とは私達にとり一つの通過点に過ぎないと思います。次に再び表舞台に現れる約10年後の米寿の時には、我が国のエネルギー事情はどうなっているでしょうか。シェール・オイルの時代なのかな、などと想像するのも楽しいものです。尤も再び大塩平八郎などが歴史の舞台に現れるような「お天道様頼りの時代」は真っ平です。この様な時代にならないことを願い拙い文筆を折ります。

 最後に皆様方のご指導のもと、無事に喜寿を迎えることができました事に感謝し、先輩諸兄の長寿をお祈り申し上げます。

                                                  以上 

   
 
 
 
 
東燃本社OB会総会にて
 
     
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