氏 名
大峯 登
 所 属
和歌山OB会
 掲 載 日
平成23年02月07日
表 題

海南市の文化財案内 慶徳山 長保寺(その2)

本   文 


  

  前回は長保寺の国宝建造物3件のお話しをしましたが、今回はその続きをお話しします。

   多宝塔の奥左手にある鎮守堂は小さいながらも国の重要文化財で、一間社流造り桧皮葺の社殿であり、その建立は本堂や多宝塔と同じ鎌倉時代とされている。

  鎮守堂奥の山全体が国指定史跡の紀州藩主徳川家墓所となっており、歴代藩主の墓碑や石灯籠、墓所を造成する石垣等の石造り遺跡は壮大豪華で、全国的に見ても近世の大名墓所では群を抜いている。藩主の墓碑の内初代から6代までの墓碑には法名等なにも刻まれていない。これはいまだ世情が徳川体制に完全には定まっておらず、万一徳川家が崩壊した場合辱めを受けないため無名としたわけで、7代藩主からはその墓碑に法名が刻まれている。これはこの時期で徳川体制が確立したと判断したのであろう。

  ここで長保寺創建時の秘話をひとつ。長保寺創建の勅願を発てた一条天皇をめぐる二人の妃 藤原道隆の娘 定子(ていし)と藤原道長の娘 彰子(しょうし)についての話です。定子は道隆の娘で一条天皇の中宮となったが、道隆が亡くなると今度は道長の娘彰子が中宮となり、定子は皇后となります。この二人の妃のブレーンは錚錚たるメンバーで、定子側には清少納言達、彰子側には紫式部達がついており、妃への助言だけでなく平安期の文化 文学の中枢となっていたのです。そして長保2年25歳の若さで定子が亡くなると、その年に一条天皇はこの長保寺の創建を勅願されたのです。

  長保寺の背後の山腹は紀州藩主歴代の墓所であるが、さらにその上方には熊野に向かう熊野参詣道(熊野古道)が通っている。

                        紀州語り部  大峯 登

長保寺遠景
長保寺鎮守堂
頼宣公墓石近景

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