氏 名
和川 久次郎
 所 属
東燃関東地区OB会
 掲 載 日
平成22年06月14日
表 題

 終戦直後の思い出

本   文 

 
 5月14日の東燃関東地区OB会総会で、皆さんから米寿をお祝いして頂きました。その際、HPの編集者から、是非とも記念の投稿をと依頼されましたので、今や、OB会の中でも、語る人が少なくなってきた、終戦直後の思い出を綴ってみました。

 昭和20年8月15日、日本は聯合国側が要求した「無条件降伏」を受け入れて、戦争が終わりました。アメリカからやってきた、『日本を再生するための調査団』は、「太平洋岸の石油工場は、全てスクラップ化する」という報告書を作成したとの新聞報道がありました。

 東燃は、9月6日付で従業員を全て解雇し、その後の推移を見守るため、待機の姿勢をとっておりました。清水工場でも、ほとんどの人が居なくなり、残務整理要員として少人数が残っておりましたが、間もなくMPがやってきて、「工場の中で、一切の作業をしてはならない!!」という命令を、伝えて帰っていきました。

 そんな状況の下での、私の身の廻りに起きたある出来ごとです。
 米軍が行った戦争の後始末の1つに、「弾薬投棄」という作業がありました。旧日本軍が、使用した大砲や機関銃などの砲弾、地雷といった危険物を処理する作業です。

 清水市でも江尻岸壁には、県内の旧軍隊から集められ危険物が木箱に入ったまま、山積みになっておりました。この木箱は全て船で、三保の沖まで運び、海中へ投げ捨てるわけです。作業する人足を、全て市内の各町内に割り当てて、調達しておりましたので、私も東亜寮(ピーク時40名の住人が、僅か10名程度になっておりました)への割り当てで、2回ほど狩り出されました。

 朝、江尻岸壁に集合すると、米兵から銃を突きつけられ「ホールドアップ」と身体検査を受けます。それが済むと、早速作業開始。砲弾の入った重い木箱を担いで、ゆらゆら揺れる狭い踏み板を渡って、岸壁に繋いである船へ運びます。ある程度荷物がまとまると出航です。
 4~50分ほどで、三保の沖に着いた所で船を止め、木箱を開けて弾薬などを海中に投げ捨てるわけです。3回ぐらい往復して1日の作業は終了です。
 沖の作業が済んで、戻り船になると監視の米兵が私達に、「Hey!」と声を掛け、
「Cigarette,Chocolate」と言いながら、煙草やチョコレートを売りつけるのです。
 闇の市価より多少安い値段なので、皆、なけなしのお金を出して買い求め、大切にポケットへ仕舞いこんで、作業をしました。
 だが、作業が終って帰るとき、再び「ホールドアップ」と銃を突きつけられ、煙草、チョコレートは、みんな取り上げられてしまいました。当時は、アメリカ製の煙草やチョコレートは、国内ではまだ販売されておりません。これらは、皆、米兵の小遣い稼ぎによる闇ルートで売買される品物でしたから、発見されると、即没収されるわけです。
 「そんなバカな話があるか!」と、心の中では、腹が立つのですが、銃を向けられているので、何も言えません。何も出来ませんでした。「戦争に負けるというのは、こういう事なんだ」と、口惜しいやら、情け無い気持ちで一杯でした。

 1ヵ月後、2回目の作業に出かけました。戻り船では、例によって「Cigarette,Chocolate」と米兵が私達に、売りつけます。初めて作業する人達は、前回の私同様、品物を買い、帰途没収されて、みんなブツブツ言って帰りました。私も、米兵からしつっこく迫られましたが、「No Money!」と言って何も買いませんでした。
 帰途、ホールドアップしたとき、米兵は、何回も私の身体を検査し、その上で、首をふりふり仲間に合図して「OK」と言いました。私は、心の中で「何回もだまされてたまるか!!」と、ちょっぴり優越感に浸りました。
 今は、懐かしい終戦直後の思い出の1つです。

以上

戦時中、会社命令でブラスバンドを結成。
従業員解散で、故郷に帰る前に、思い思いの服装で記念撮影
(後列右から4番目が私)
再開後の運動会で、研究所として仮装行列に参加
(後列左から3番目が私)
東燃関東地区OB会で
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